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『次郎物語』第五部と永田鉄山
下村湖人(1884~1955)の代表作『次郎物語』の第一部は、湖人の故郷佐賀における少年時代の体験に基づく小説で、多くの映画やラジオ・テレビドラマの原作となり、湖人を一躍有名にしました。湖人は第一部以降も『次郎物語』を書き続けましたが、最後の第五部で物語は未完のまま没しています。湖人は晩年、弟子の吉田嗣延(1910~1989)を主人公次郎のモデルにして、沖縄を舞台に第六部の構想を練っていました。戦後にいち早く一般向けの読み物で、沖縄問題を問おうとした湖人の思いが窺えます。
最後の『次郎物語』となってしまった第五部は、次郎が二十歳の頃の話です。舞台となっている友愛塾は、湖人が昭和8年から12年まで青年団講習所の所長を務めた当館の前身である浴恩館をモデルにしています。湖人の弟子で『下村湖人伝』の著者でもある永杉喜輔(1909~2008)は、第五部は第一部と並んで最もノンフィクションに近いと指摘しています。次郎の思い人道江は別として、その登場人物の多くには実在のモデルがおり、政治的見解が異なる人物を多数抱え込んでいた当時の日本青年館の状況をそのままに反映しています。
次郎のモデルは第一部では湖人自身でしたが、第五部では湖人の青年団講習所時代の助手を務めた五百蔵辛碌(いおろいしんろく)です。特に次郎が塾生に体操の指導をする場面、あるいは塾生の歌や踊りに合わせてオルガンの伴奏をする場面は、五百蔵がモデルです。次郎を見守る朝倉先生のモデルは第五部では湖人自身で、朝倉先生を信任し友愛塾を設立した田沼氏のモデルは、言うまでもなく日本青年館の実質的設立者で「青年の父」と謳われた田澤義鋪(1885~1944)です。
この三人の主要人物の敵役として登場するのが、荒田老と平木中佐です。荒田老のモデル、志賀直方(1879~1937)は志賀直哉の叔父に当たり、日本青年館初代理事長を務めた近衛文麿のスポンサーで、陸軍皇道派の後ろ盾となった人物です。平木中佐のモデル、鈴木貞一(1888~1989)は東條英機の側近で、「最後のA級戦犯」として名高い人物です。二人は浴恩館に、湖人が就任する以前の竣工当初から関わっていました。
さて、湖人の浴恩館時代、国内の最も大きな事件といえば、昭和11年の二・二六事件でしょう。第五部の後半「九 異変(Ⅰ)」以降は、専ら二・二六事件とその影響下にある登場人物の動静が描かれています。昭和11年2月26日朝、浴恩館にいた湖人は新宿の自宅と日本青年館から電話を受け、初めて事件を知ったのですが、物語中では次郎が電話で事件を知り、それを朝倉先生に伝える設定になっています。しばし愕然とした朝倉先生は、次郎に陸軍内部の派閥争いについて教え諭すため、手始めに二・二六事件の前触れとなった前年の相沢事件(永田鉄山斬殺事件)を採り上げています。
「去年の八月だったか、永田鉄山中将が、軍務局長室で相沢中佐に暗殺された事件があったね、覚えているだろう。」
「ええ、覚えていますとも。まだ裁判はすんでいないでしょう。」
「あれなんかも、陸軍の派閥争いの一つの犠牲だよ。裁判がややこしくなるのも無理はない。」
朝倉先生は、それから、陸軍内部の近年の動きについて、あらましの説明をしてきかせたが、それによると、全陸軍の主脳部が統制派と皇道派の二派にわかれて、醜い勢力争いをやっている、というのであった。
下村湖人『次郎物語』第五部より
これを読んだ限りでは、昭和10年8月12日、陸軍統制派の中心人物である永田鉄山(1884~1935)が皇道派の下士官相沢三郎中佐に斬り殺された事件を、第三者の視点で話題にしているだけに読み取れます。しかしながら、実は永田鉄山は渋谷区松濤の本宅とは別に、浴恩館の西(現在の小金井市緑町3-4-18・19)に別邸を建てて、普段は妹の永田壽美(1890~1965)に管理を任せていました。永田鉄山が亡くなった翌年の昭和11年2月28日、つまり二・二六事件の二日後には、後妻の永田重(1902~?)が渋谷から三人の子供を引き連れて、この別邸に移り住んでいます。世間の同情を引いた重は、小金井転居後、新聞記者のインタビューに次のように答えています。
「この土地は主人も生前大変好きな場所でした。日曜ごとに子供たちを連れてはこの辺りを散歩し、隠居したらここで百姓をするんだなどと言って笑わせたものです。それにこの近所には主人の妹(永田すみさん)も以前からお住まいなので私共もここへ移って参りましたようなわけです。」
昭和11年5月10日 読売新聞朝刊
湖人と永田鉄山が直接に交流のあったことを示す記録はありませんが、浴恩館の西隣に居を構え近辺を子供たちと散策していた永田鉄山を、湖人が知らなかったとは考え難いです。つまり湖人にとって永田鉄山斬殺事件は、帝都東京であった陸軍内部の某重大事件ではなく、近所の高級将校が殺された事件であり、物語中よりはるかに身近な衝撃であったことは想像に難くありません。このことは『下村湖人伝』や『次郎物語』の解説には一切触れておらず、永田鉄山の評伝にも小金井に別邸があったことを記すのみで、その詳細については何も書いていません。
「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」とは、永田鉄山の人物評として有名ですが、この言葉を述べた鈴木貞一は皮肉にも東條英機の側近でした。『下村湖人伝』には戦後、平木中佐こと鈴木貞一が、巣鴨プリズンで第五部を読んで歯ぎしりをして悔しがったとありますが、それだけリアルな内容であったということでしょう。
これまで『次郎物語』の研究は、文学や教育学の研究者に限られていましたが、現代史という新たな切り口からアプローチできる可能性を秘めています。次郎の成長物語として読むだけではなく、昭和戦前の日本青年館を取り巻く複雑な政治的状況を視野に入れないかぎり、『次郎物語』第五部の成立過程を解明するのは困難でしょう。
小金井桜と二人のイギリス人研究者
小金井の桜は早くから海外の研究者にも注目され、国の名勝指定以前の大正3年4月、ハーバード大学の委嘱により来日したアーネスト・ヘンリー・ウィルソン(1876~1930)が小金井堤を訪れ、極めて鮮明なガラス乾板写真を撮影しています。玉川上水と小金井の桜並木の写真は、絵葉書をはじめとして膨大な数に上りますが、戦前に撮影年月日まで分かるものは極めて稀です。ウィルソンが撮影した「日の出の桜」や梶野橋の写真は、撮影年月日のみならず撮影地点が特定できる貴重なものです。
ウィルソンはイギリス中西部に生まれ、21歳で王立植物園キューガーデンに採用されます。23歳で中国から幻の花「ハンカチノキ」の種子を持ち帰るなど、計4回にわたり中国奥地を探検し、当時は未知の植物をヨーロッパにもたらしたプラントハンターとして知られる人物です。その後、アメリカに住まいを移し、ハーバード大学アーノルド植物園に勤務。大正3年の初来日時には、屋久島から北海道までを縦断し、2月に屋久島で屋久杉の切り株「ウィルソン株」を発見したのち、4月に小金井堤を訪れています。
ウィルソンが小金井を最初に訪問した大正3年4月9日は、昭憲皇太后が崩御した日でもあります。大久保善左衛門(常吉)を中心に小金井桜を国の名勝に指定すべく運動していた地元団体「小金井保桜会」は、当初、その発会式を大正3年4月12日に予定していました。ところが、昭憲皇太后崩御により延期、翌大正4年4月18日に発会式を行います。ウィルソンは事前に小金井保桜会が発足する時期を見計らって、小金井を訪れたのかも知れません。
ウィルソンは東京での定宿を帝国ホテルにしていましたが、帝国ホテル支配人林愛作は、桜を愛好する日本全国の名士の集まり「桜の会」の中心人物でした。桜の会には大久保善左衛門(常吉)や磯村貞吉など、小金井保桜会の上層部も名を連ねていました。ウィルソンが小金井堤を訪れたのは桜の会や、交流があった三好學や牧野富太郎といった研究者からの情報提供によるものでしょう。大正13年には小金井保桜会の尽力が実り、小金井桜は国の名勝に指定されます。さらに大正15年には、イギリス人園芸家コリングウッド・イングラム(1880~1981)が小金井を来訪します。
イングラムはロンドンに生まれ、祖父の代から新聞事業で財を成し、裕福なので働く必要はなかったので、学校教育は一切受けず、独学で鳥類や桜の研究者として名を成しました。来日は明治35年・明治40年・大正15年の都合三回にわたり、日本全国の桜の名所を行脚しました。日本の多様な品種のヤマザクラに魅せられたイングラムは、その穂木(接ぎ木の際に台木に挿す枝)をシベリア鉄道や船でイギリスに送っています。今日、イギリスに広まっている日本のヤマザクラは、イングラムによって植樹されたものの子孫です。
イングラムが小金井を訪れたのは、武蔵小金井駅正式開業後、初めての春である大正15年4月21日。通訳と案内は、桜の会の林愛作が務めました。イングラムを現代に紹介した阿部菜穂子氏より直接伺ったところでは、イングラムは日の出の桜と並ぶ名桜「富士見桜」を撮影し、すでに老木化が進んでいた富士見桜の手当ての必要性を手記に残しているそうです。またイングラムは帰りがけに、小金井橋南にあった磯村貞吉の経営する華丘香園(はなおかこうえん 別名:三田育種場小金井支場)を訪れ、八種類のヤマザクラと紅梅の穂木を、イギリスのイングラム邸まで送ることを依頼しています。さらに昭和3年には、イギリスに帰国したイングラムのもとに、桜の会から富士見桜の穂木を船便で送っています。現在、イギリスに広まっている日本のヤマザクラの中には、小金井桜の子孫もあるはずです。
参考文献
古居智子『100年前の東京と自然 プラントハンター ウィルソンの写真』八坂書房
※ 写真は同書より転載
阿部菜穂子『チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人』岩波書店
映画『日本百年』に見る小金井桜の賑わい
昭和49年に劇場公開された映画『日本百年』は、山田洋造監督による明治から戦後の高度成長期に至るまでの日本を、通史的に俯瞰したドキュメンタリーです。本作はニュースフィルムや写真をつなぎ合わせて制作されており、その中には昭和5年の春、小金井堤に花見にきた様子を収めたフィルムが、2分30秒ほど使われています。撮影者は明らかではありませんが、昭和戦前に家庭用ムービーカメラを所有したのですから、かなり裕福な一家であったのでしょう。
新宿駅を出発する場面から始まり、すでに武蔵小金井駅は通年営業しているのにも関わらず国分寺駅で下車します。国分寺駅ホームの名所案内の掲示板には、「貫井弁財天」「国分寺旧址」「大国魂神社」「小金井ノ桜」が挙がっています。このあと場面は玉川上水堤に切り替わり、はじめに小金井橋北の名勝小金井桜標柱が写ります。堤をぞろぞろ歩く花見客の群れは、現在の渋谷駅前交差点を連想させるほどの混雑ぶりです。輪になって踊り狂う人々、旅芸人の子供、喧嘩をする酔客等々。小金井橋北の柏屋付近では、客を引く芸妓がたむろっています。短い収録時間にも関わらず、世俗化し狂騒に満ちた当時の花見に圧倒されます。
小金井堤のヤマザクラ並木は、寛政年間頃から江戸市中の人々にも徐々に知られるようになります。はじめに小金井を訪れたのは、すでに桜の名所として知られていた上野寛永寺・飛鳥山・墨堤など、江戸庶民の花見の名所の喧噪を嫌い、静かに武蔵野の里で花見を楽しみたい江戸のインテリ層、文人たちでした。明治22年、中央線の前身である甲武鉄道が開通した当初は、境停車場(現武蔵境駅)と国分寺停車場(現国分寺駅)が、小金井堤に向かう最寄り駅でした。さらに大正13年、小金井桜が国の名勝に指定され、大正15年の武蔵小金井駅正式開業により、都心から益々盛んに花見客を呼び込みました。
『日本百年』に見る昭和5年の小金井堤の賑わいは、花見客の動員数だけを考慮すれば、正に昭和戦前のピーク時の映像です。そこに映し出された小金井堤は、小金井桜当初の閑雅な花見には程遠いものです。良し悪しはともかく、退廃的な空気さえ醸し出す昭和戦前の花見の実態を知るうえで、このフィルムは貴重な情報源に違いありません。
金井観花詩歌図巻に見る小金井桜樹碑
文化7年(1810)に建立された小金井桜樹碑の碑文は、小金井桜の始まりを伝えた最初の文章で、多摩郡清水村(現東大和市)出身の漢学者大久保狭南(おおくぼきょうなん)の撰文によるものです。川崎平右衛門定孝が元文2年に小金井桜を植えたとする碑文は、後々の地誌や紀行文に典拠として頻繁に引用され、多くの研究者が検討を加えています。それに比べて、これまで注目を浴びなかったのは、「小金井桜樹碑は最初、どこに建立されたのか?」という問題です。
現在、小金井桜樹碑は小金井橋から五日市街道を西に向かった海岸寺(小平市御幸町)の門前にあります。碑文が刻まれた正面を参道に面して、つまり西に向けて建っています。しかし、これは少々奇妙なことです。桜樹碑は五日市街道を逍遥する花見客に、小金井桜の起源を伝えるために建立されたものなので、本来南向きに、つまり五日市街道に正面を向けて建てるのが自然でしょう。
金井観花詩歌図巻では、江戸藩邸から花見に来た越前丸岡藩主有馬誉純(ありまなずみ)自身が、紀行文に小金井桜樹碑について触れており、同行した絵師伊星元雅(いぼしもとまさ)が描いた風景画のなかの小金井桜樹碑は、五日市街道に面して建っています。実地に見て描いた風景画であったことは、その信憑性を高めています。さらに現在と向きが異なるだけでなく、その位置も若干、小金井橋寄りの東側にあったことは、江戸期の地誌から察せられます。
(小金井)橋の北に秋葉権現の祠あり、境内に石碑あり、滕明夫(大久保狭南)なるもの誌せり
斎藤鶴磯『武蔵野話』文化12年(1815)
小金井桜樹碑
多磨川上水北側にて秋葉の社に並び建てり
『新編武蔵風土記稿』文政11年(1828)
いずれも小金井桜樹碑の位置を示す指標として海岸寺ではなく、海岸寺門前から五日市街道を東に向かった秋葉神社を挙げています。以上の史料を踏まえて総合すると、元々、小金井桜樹碑は現在地から東の秋葉神社寄りに、五日市街道に面して建てたものを、現在地に向きを変えて移設したと考えられます。
館のイチオシ
落下タンク(増槽)
清水家民具館旧蔵。太平洋戦争当時、戦闘機の機体下部に取り付けられた補助燃料タンクです。機体本体内の燃料を温存するために、先に落下タンク内の燃料を使用し、戦闘開始と同時に投棄して身軽になって戦いました。
日本戦闘機の卓越した航続距離を支えた部品ですが、素材は当時の日本の資源不足を反映して、竹製の骨組みに紙張りです。この落下タンクは敗戦直後、調布飛行場から持ち帰り、何らかの容器として使われていたようです。
貫井村全図 坂上 明治8年(1875)
貫井村平井家旧蔵。地租改正後に描かれた小字「一之久保」から北側の貫井村の絵図で、小金井新田一之久保や本多新田下之井は、貫井村ではないので記入されていません。疎らな人家に比べて、山林の緑が目を引く絵図です。現在は貫井神社に合祀されている貫井村稲穂神社と八雲神社の社地が記入されているのも特徴です。
貫井村全図 坂下 明治8年(1875)
貫井村平井家旧蔵。地租改正後に描かれた小字「荒牧」から南側の貫井村の絵図で、大正期に波多野承五郎が滄浪泉園を造成する以前から、池があったことが分かります。詳細に記入された下弁天(元弁天)の社地や、貫井神社の鳥居前から東へ240mほどの地点にあった「おおせど」の湧水が記入されているのも特徴です。
小金井村絵図 明治2年(1869)
下小金井村大久保善左衛門家旧蔵。地租改正前に描かれた江戸期さながらの麁絵図で、赤道沿いに細かく記入された村人の名は、住所を示しています。隣接する小金井分水の分水口や御栗林は、小金井村には含まれませんが、特に重要視されたためか記入されています。野川沿いの田圃はもちろんのこと、現在の法政大学小金井キャンパス周辺である亀久保田圃も記入されています。
陸軍技術研究所境界石杭(市登録有形文化財)
昭和15年と17年、強制買収により現在の小金井市北西部と小平市上水南町3・4丁目に移転してきた陸軍技術研究所は、広大な用地の周囲に石杭を埋めて、その範囲を表示しました。石杭は全長100cm、「陸軍」と刻んだ上部20cmを地上に出し、残り80cmの下部は地中に埋めてありました。戦後、技研敷地の払い下げと宅地造成にともない大多数が廃棄され、現在残っているのは当館所蔵の石杭と、本町5-31道路脇に残る石杭のみです。
埋甕(市指定有形文化財)
中山谷遺跡23号住居址出土。縄文中期後半の加曽利E2式前半期のものです。埋甕(うめがめ)1・2は住居址の床面に掘られた穴の中に口縁部を下にして、伏せた状態で埋められており、幼児埋葬等の風習と見られています。1は底部のほぼ中心に直径2cmの穿孔があり、全く割れや欠けが無いほぼ無傷の優品です。これらは、武蔵野台地における縄文時代中期後半の加曽利E2式期の標準資料として貴重なものです。
金井観花詩歌図巻(市指定有形文化財)
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小金井橋周辺の風景画 |
三好學旧蔵。文政9年(1826)3月、越前丸岡(現福井県坂井市丸岡町)藩主有馬誉純(ありまなずみ)が、二男純佑及び家臣等を伴い、江戸宇田川町(現港区新橋六丁目)の別邸より騎馬で小金井に遠乗り、花見をした時のもので、紀行文・絵画・詩歌を集めて一巻としたものです。巻頭に純佑筆の「金井観花」の題字に続き、誉純による自筆の紀行文があります。絵画は小金井橋を中心とした桜並木の風景画で、絵の終わりに誉純の題歌があり、巻末に家臣等が詠んだ漢詩文16編、侍女等の和歌22首の詠草を載せています。文人大名家の文芸奨励の一端を示すもので、武家の花見風俗や文学的水準の高さをあらわす貴重な作品です。
特筆すべきは同行した絵師伊星元雅(いぼしもとまさ)が描いた風景画で、当時の実際の景色「真景」を描いたものです。小金井桜の中心地である小金井橋周辺を描くのは定番であり、歌川広重の錦絵に代表される数多くの風景画がありますが、いずれもあり得ないほど立派な小金井橋が描かれています。それに比べて、この金井観花詩歌図巻に見る小金井橋は極めて質素な橋であり、こちらの方がより現実に近い描写と言えるでしょう。小金井橋北西には小金井堤を代表する花見茶屋である柏屋が描かれ、有馬誉純一行が乗ってきた馬が繋がれています。また、小金井橋北岸には玉川上水の水を汚すことを禁じた高札、南岸には水神の社があります。水神は一時期、小金井橋の北岸にありましたが、現在、元の小金井橋南岸に戻されています。
小金井桜樹碑拓本(市指定有形文化財)
三好學旧蔵。小金井桜樹碑は文化7年(1810)に建立され、現在は小平市御幸町の海岸寺門前にあります。碑文は多摩郡清水村(現東大和市)出身の漢学者大久保狭南(おおくぼきょうなん)の撰文によるもので、小金井桜の起源を記した文章の初出です。この拓本は金井観花詩歌図巻の紀行文に、佐野肥前守から有馬誉純(ありまなずみ)に贈られたものとあり、金井観花詩歌図巻と一対をなすものです。碑が建立された当時に摺られた拓本で、極めて保存状態の良いものです。
国産ミショー型自転車(市登録有形民俗文化財)
貫井村平井家旧蔵。日本に居住した外国人が乗っていたミショー型自転車を、明治10~20年頃に、日本の鍛冶職人が見様見真似で作ったものです。フレームは鉄を叩いて製作したので平たく、車輪は木材のスポークに鉄輪をはめています。日本人向けのため、大きさは外国製に較べて小さくしてあります。乗り心地が悪いために「がたくり」などと呼ばれました。
詳らかな由来は不明ですが、貫井村の平井武左衛門が購入し、乗っていたものと思われます。現存する国産ミショー型は20台足らずであり、希少な資料です。