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トピックス


■ 小金井市文化財センター
映画『日本百年』に見る小金井桜の賑わい

 昭和49年に劇場公開された映画『日本百年』は、山田洋造監督による明治から戦後の高度成長期に至るまでの日本を、通史的に俯瞰したドキュメンタリーです。本作はニュースフィルムや写真をつなぎ合わせて制作されており、その中には昭和5年の春、小金井堤に花見にきた様子を収めたフィルムが、2分30秒ほど使われています。撮影者は明らかではありませんが、昭和戦前に家庭用ムービーカメラを所有したのですから、かなり裕福な一家であったのでしょう。
 新宿駅を出発する場面から始まり、すでに武蔵小金井駅は通年営業しているのにも関わらず国分寺駅で下車します。国分寺駅ホームの名所案内の掲示板には、「貫井弁財天」「国分寺旧址」「大国魂神社」「小金井ノ桜」が挙がっています。このあと場面は玉川上水堤に切り替わり、はじめに小金井橋北の名勝小金井桜標柱が写ります。堤をぞろぞろ歩く花見客の群れは、現在の渋谷駅前交差点を連想させるほどの混雑ぶりです。輪になって踊り狂う人々、旅芸人の子供、喧嘩をする酔客等々。小金井橋北の柏屋付近では、客を引く芸妓がたむろっています。短い収録時間にも関わらず、世俗化し狂騒に満ちた当時の花見に圧倒されます。
 小金井堤のヤマザクラ並木は、寛政年間頃から江戸市中の人々にも徐々に知られるようになります。はじめに小金井を訪れたのは、すでに桜の名所として知られていた上野寛永寺・飛鳥山・墨堤など、江戸庶民の花見の名所の喧噪を嫌い、静かに武蔵野の里で花見を楽しみたい江戸のインテリ層、文人たちでした。明治22年、中央線の前身である甲武鉄道が開通した当初は、境停車場(現武蔵境駅)と国分寺停車場(現国分寺駅)が、小金井堤に向かう最寄り駅でした。さらに大正13年、小金井桜が国の名勝に指定され、大正15年の武蔵小金井駅正式開業により、都心から益々盛んに花見客を呼び込みました。
 『日本百年』に見る昭和5年の小金井堤の賑わいは、花見客の動員数だけを考慮すれば、正に昭和戦前のピーク時の映像です。そこに映し出された小金井堤は、小金井桜当初の閑雅な花見には程遠いものです。良し悪しはともかく、退廃的な空気さえ醸し出す昭和戦前の花見の実態を知るうえで、このフィルムは貴重な情報源に違いありません。

小金井桜と二人のイギリス人研究者

 小金井の桜は早くから海外の研究者にも注目され、国の名勝指定以前の大正3年4月、ハーバード大学の委嘱により来日したアーネスト・ヘンリー・ウィルソン(1876~1930)が小金井堤を訪れ、極めて鮮明なガラス乾板写真を撮影しています。玉川上水と小金井の桜並木の写真は、絵葉書をはじめとして膨大な数に上りますが、撮影年月日まで分かるものは極めて稀です。ウィルソンが撮影した「日の出の桜」や梶野橋の写真は、撮影年月日のみならず撮影地点が特定できる貴重なものです。
 ウィルソンはイギリス中西部に生まれ、21歳で王立植物園キューガーデンに採用されます。23歳で中国から幻の花「ハンカチノキ」の種子を持ち帰るなど、計4回にわたり中国奥地を探検し、当時は未知の植物をヨーロッパにもたらしたプラントハンターとして知られる人物です。その後、アメリカに住まいを移し、ハーバード大学アーノルド植物園に勤務。大正3年の初来日時には、屋久島から北海道までを縦断し、2月に屋久島で屋久杉の切り株「ウィルソン株」を発見したのち、4月に小金井堤を訪れています。
 ウィルソンが小金井を来訪した大正3年4月9日は、昭憲皇太后が崩御した日でもあります。大久保善左衛門(常吉)を中心に小金井桜を国の名勝に指定すべく運動していた地元団体「小金井保桜会」は、当初、その発会式を大正3年4月12日に予定していました。ところが、昭憲皇太后崩御により延期、翌大正4年4月18日に発会式を行います。ウィルソンは事前に小金井保桜会が発足する時期を見計らって、小金井を訪れたのかも知れません。
 ウィルソンは東京での定宿を帝国ホテルにしていましたが、帝国ホテル支配人林愛作は、桜を愛好する日本全国の名士の集まり「桜の会」の中心人物でした。桜の会には大久保善左衛門(常吉)や磯村貞吉など、小金井保桜会の上層部も名を連ねていました。ウィルソンは三好學や牧野富太郎とも交流があり、小金井堤を訪れたのも桜の会からの情報提供によるものでしょう。大正13年には小金井保桜会の尽力が実り、小金井桜は国の名勝に指定されます。さらに大正15年には、イギリス人園芸家コリングウッド・イングラム(1880~1981)が小金井を来訪します。
 イングラムはロンドンに生まれ、祖父の代から新聞事業で財を成し、裕福なので働く必要はなかったので、学校教育は一切受けず、独学で鳥類や桜の研究者として名を成しました。来日は明治35年・明治40年・大正15年の都合三回にわたり、日本全国の桜の名所を行脚しました。日本の多様な品種のヤマザクラに魅せられたイングラムは、その穂木(接ぎ木の際に台木に挿す枝)をシベリア鉄道や船でイギリスに送っています。今日、イギリスに広まっている日本のヤマザクラは、イングラムによって植樹されたものの子孫です。
 イングラムが小金井を訪れたのは、武蔵小金井駅正式開業後、初めての春である大正15年4月21日。通訳と案内は、桜の会の林愛作が務めました。イングラムを現代に紹介した阿部菜穂子氏より直接伺ったところでは、イングラムは日の出の桜と並ぶ名桜「富士見桜」を撮影し、すでに老木化が進んでいた富士見桜の手当ての必要性を手記に残しているそうです。またイングラムは帰りがけに、小金井橋南にあった磯村貞吉の経営する華丘香園(はなおかこうえん 別名:三田育種場小金井支場)を訪れ、八種類のヤマザクラと紅梅の穂木を、イギリスのイングラム邸まで送ることを依頼しています。さらに昭和3年には、イギリスに帰国したイングラムのもとに、桜の会から「富士見桜」の穂木を船便で送っています。現在、イギリスに広まっている日本のヤマザクラの中には、小金井桜の子孫もあるはずです。

参考文献
古居智子『100年前の東京と自然 プラントハンター ウィルソンの写真』八坂書房
阿部菜穂子『チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人』岩波書店

金井観花詩歌図巻に見る小金井桜樹碑

 文化7年(1810)に建立された小金井桜樹碑の碑文は、小金井桜の始まりを伝えた最初の文章で、多摩郡清水村(現東大和市)出身の漢学者大久保狭南(おおくぼきょうなん)の撰文によるものです。川崎平右衛門定孝が元文2年に小金井桜を植えたとする碑文は、後々の地誌や紀行文に典拠として頻繁に引用され、多くの研究者が検討を加えています。それに比べて、これまで注目を浴びなかったのは、「小金井桜樹碑は最初、どこに建立されたのか?」という問題です。
 現在、小金井桜樹碑は小金井橋から五日市街道を西に向かった海岸寺(小平市御幸町)の門前にあります。碑文が刻まれた正面を参道に面して、つまり西に向けて建っています。しかし、これは少々奇妙なことです。桜樹碑は五日市街道を逍遥する花見客に、小金井桜の起源を伝えるために建立されたものなので、本来、五日市街道に正面を向けて建てるのが自然でしょう。
 金井観花詩歌図巻では、江戸藩邸から花見に来た越前丸岡藩主有馬誉純(ありまなずみ)自身が、紀行文に小金井桜樹碑について触れており、同行した絵師伊星元雅(いぼしもとまさ)が描いた風景画のなかの小金井桜樹碑は、五日市街道に面して建っています。実地に見て描いた風景画であったことは、その信憑性を高めています。さらに現在と向きが異なるだけでなく、その位置も若干、小金井橋寄りの東側にあったことは、江戸期の地誌から察せられます。

(小金井)橋の北に秋葉権現の祠あり、境内に石碑あり、滕明夫(大久保狭南)なるもの誌せり
斎藤鶴磯『武蔵野話』文化12年(1815)

小金井桜樹碑
多磨川上水北側にて秋葉の社に並び建てり
『新編武蔵風土記稿』文政11年(1828)

 いずれも小金井桜樹碑の位置を示す指標として海岸寺ではなく、海岸寺門前から五日市街道を東に向かった秋葉神社を挙げています。以上の史料を踏まえて総合すると、元々、小金井桜樹碑は現在地から100mほど東の秋葉神社寄りに、五日市街道に面して建てたものを、現在地に向きを変えて移設したと考えられます。

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