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トピックス一覧



町田市立博物館


【町田市立博物館】多摩クラフト協会作家と町田市立博物館が贈る 暮らしに寄りそうアート

多摩地区で活躍する工芸美術作家の団体である多摩クラフト協会の作品約150点を展示します。上質な器や服飾、家具、ジュエリーなどを、来て、見て、体験して、その魅力をお楽しみください。



町田市立博物館


町田市立博物館収蔵品展「絵巻の中から飛び出した!?『たはらかさね耕作絵巻』にみる農具」

『たはらかさね耕作絵巻』は、江戸時代に上流階級の子どもたちに農業の大変さについて教えるために描かれた絵巻物です。
町田市立博物館が所蔵している『たはらかさね耕作絵巻』の中から絵画部分を写真パネル化し、そこに描かれている農具を当館所蔵民俗資料を展示して、農具の使い方などをご紹介します。



清瀬市郷土博物館


特別展「下宿内山遺跡展-江戸~昭和の清瀬を掘るー」

下宿内山遺跡は、今から約40年前に発掘調査がおこなわれた遺跡です。広大な調査地からは縄文~昭和までの遺構・遺物が見つかっていますが、特に江戸時代以降の農村の生活を知ることができる様々な遺物が見つかっています。
本展では、現在の考古学の研究成果を踏まえて新しい下宿内山遺跡の様相を陶磁器を中心に紹介します。



調布市郷土博物館


【調布市郷土博物館】東京都文化財指定記念展「深大寺の元三大師」

平安時代の僧・元三大師良源は、鬼の姿となり疫病を退散させたといわれています。元三大師にまつわる貴重な文化財を一挙公開!ぜひお越しください。
会期:令和2年10月13日(火)~12月13日(日)
※本展では、秘仏・元三大師像の公開はしておりません。



福生市郷土資料室


福生市制施行50周年記念企画展示「江戸の日本刀ー赤羽刀譲与20年ー」

 第二次世界大戦後、連合軍総司令部(GHQ)は、日本軍の武装解除の一環として民間が所有する日本刀の接収をおこないました。これらの日本刀は米第八軍赤羽兵器補給廠に保管され、のちにその地名を取って「赤羽刀」と呼ばれています。平成11年12月、福生市郷土資料室は文化庁より赤羽刀97振を譲与されました。
 本企画展示「江戸の日本刀」は、赤羽刀譲与20年という節目の年を記念し、文化庁より譲与された赤羽刀の中から江戸時代の日本刀を中心に展示いたします。江戸の時代に花開いた、美術工芸品としての日本刀の世界をお楽しみください。


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町田市立博物館


町田市立博物館収蔵品展「むかしなつかしミシンのはなし」

町田市立博物館が所蔵する6台のミシンとともに、裁縫道具とその使い方やミシンが家庭の必需品としてあった昭和時代を中心とした暮らしについてご紹介します。



多摩六都科学館


大型映像「HAYABUSA2 ~REBORN~」

小惑星リュウグウのカケラを持ち帰るため、再び広大な宇宙空間へ飛び立ったはやぶさ2。
2年半、32億キロの距離を進み続けた孤独な旅路の末、待ち構えていたのは、想定外のリュウグウの姿だった。
はやぶさ2はどのように困難を乗り越え、数々のミッションを成功させていったのか。
そして彼がリュウグウで見つけたものとは…



清瀬市郷土博物館


第23回テーマ展示「清瀬市制施行50周年ーいま・むかし展ー」

清瀬市は1970年10月1日に市制を施行し、2020年に市制施行50周年を迎えます。50周年の節目をきっかけに、今まで積み重ねてきた生活や文化の視点から郷土に触れてほしいという思いから、いま・むかし展と題し、身近な生活文化としての学校と行事を取り上げ紹介しています。



福生市郷土資料室


福生市郷土資料室企画展示「平和のための戦争資料展」

 福生市郷土資料室では、毎年終戦の日に合わせ、平和の大切さを再認識することを目的とした企画展示を行っています。
 今年は、戦争に関する報道・喧伝・出版物などのメディア資料と、福生に残る戦争資料を展示し、情報がもたらす力について考えていきます。


東村山ふるさと歴史館


ロビーミニ展示「東村山と戦争」


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福生市郷土資料室


福生市制施行50周年記念特別展示「写真でたどる福生」

令和2年7月1日、福生市は市制施行から50 周年を迎えます。
 福生町の時代から福生市へと時代が移り進むなかで、人口増加や生活インフラが整備され、農村から都市へ姿を変えてきました。また、そこで営まれる人々の暮らしや生業も変わってきました。
 展示では、現在の風景との比較を交えながら、福生の街並みや暮らしの変化を写真でたどります。



福生市郷土資料室


福生市制施行50周年記念企画展示「資料が語る福生市のあゆみ」

 福生市制施行50周年を記念して、明治時代から現代までの福生市の軌跡をたどる企画展示を開催します。
 古文書や記念品などの資料を通して、行政の変遷、産業や生活の変化、さらには東京オリンピックとのかかわりなど、これまでの福生市のあゆみを振り返ります。

【期 間】令和2年6月2日(火)~6月21日(日)
     ※新型コロナウイルス感染症の影響により、会期を変更して開催いたします。
【休館日】月曜日(月曜日が祝日の場合は翌平日)
【問合せ】福生市郷土資料室(生涯学習推進課文化財係)
     042-530-1120


調布市郷土博物館


【調布市郷土博物館】6月2日再開のお知らせ

調布市郷土博物館では、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、令和2年5月31日(日)まで臨時休館しておりましたが、6月2日(火)より開館いたします。入館を電話による事前予約制とさせていただきます。
詳しくはホームページ・ツイッターをご覧いただくか、お問合せください。
調布市公式ホームページ(郷土博物館)
https://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1176118850606/index.html
調布市郷土博物館公式ツイッター
https://twitter.com/chofu_museum


八王子市郷土資料館


八王子市郷土資料館再開のお知らせ(6/2から)

八王子市郷土資料館は、新型コロナウィルス感染拡大防止措置をとった上で、6月2日より開館します。入館制限等を設ける場合もございますが、ご理解とご協力をお願いします。



小金井市文化財センター


『次郎物語』第五部と永田鉄山

 下村湖人(1884~1955)の代表作『次郎物語』の第一部は、湖人の故郷佐賀における少年時代の体験に基づく小説で、多くの映画やラジオ・テレビドラマの原作となり、湖人を一躍有名にしました。湖人は第一部以降も『次郎物語』を書き続けましたが、最後の第五部で物語は未完のまま没しています。湖人は晩年、弟子の吉田嗣延(1910~1989)を主人公次郎のモデルにして、沖縄を舞台に第六部の構想を練っていました。戦後にいち早く一般向けの読み物で、沖縄問題を問おうとした湖人の思いが窺えます。
 最後の『次郎物語』となってしまった第五部は、次郎が二十歳の頃の話です。舞台となっている友愛塾は、湖人が昭和8年から12年まで青年団講習所の所長を務めた当館の前身である浴恩館をモデルにしています。湖人の弟子で『下村湖人伝』の著者でもある永杉喜輔(1909~2008)は、第五部は第一部と並んで最もノンフィクションに近いと指摘しています。次郎の思い人道江は別として、その登場人物の多くには実在のモデルがおり、政治的見解が異なる人物を多数抱え込んでいた当時の日本青年館の状況をそのままに反映しています。
 次郎のモデルは第一部では湖人自身でしたが、第五部では湖人の青年団講習所時代の助手を務めた五百蔵辛碌(いおろいしんろく)です。特に次郎が塾生に体操の指導をする場面、あるいは塾生の歌や踊りに合わせてオルガンの伴奏をする場面は、五百蔵がモデルです。次郎を見守る朝倉先生のモデルは第五部では湖人自身で、朝倉先生を信任し友愛塾を設立した田沼氏のモデルは、言うまでもなく日本青年館の実質的設立者で「青年の父」と謳われた田澤義鋪(1885~1944)です。
 この三人の主要人物の敵役として登場するのが、荒田老と平木中佐です。荒田老のモデル、志賀直方(1879~1937)は志賀直哉の叔父に当たり、日本青年館初代理事長を務めた近衛文麿のスポンサーで、陸軍皇道派の後ろ盾となった人物です。平木中佐のモデル、鈴木貞一(1888~1989)は東條英機の側近で、「最後のA級戦犯」として名高い人物です。二人は浴恩館に、湖人が就任する以前の竣工当初から関わっていました。
 さて、湖人の浴恩館時代、国内の最も大きな事件といえば、昭和11年の二・二六事件でしょう。第五部の後半「九 異変(Ⅰ)」以降は、専ら二・二六事件とその影響下にある登場人物の動静が描かれています。昭和11年2月26日朝、浴恩館にいた湖人は新宿の自宅と日本青年館から電話を受け、初めて事件を知ったのですが、物語中では次郎が電話で事件を知り、それを朝倉先生に伝える設定になっています。しばし愕然とした朝倉先生は、次郎に陸軍内部の派閥争いについて教え諭すため、手始めに二・二六事件の前触れとなった前年の相沢事件(永田鉄山斬殺事件)を採り上げています。

「去年の八月だったか、永田鉄山中将が、軍務局長室で相沢中佐に暗殺された事件があったね、覚えているだろう。」
「ええ、覚えていますとも。まだ裁判はすんでいないでしょう。」
「あれなんかも、陸軍の派閥争いの一つの犠牲だよ。裁判がややこしくなるのも無理はない。」
 朝倉先生は、それから、陸軍内部の近年の動きについて、あらましの説明をしてきかせたが、それによると、全陸軍の主脳部が統制派と皇道派の二派にわかれて、醜い勢力争いをやっている、というのであった。
下村湖人『次郎物語』第五部より

 これを読んだ限りでは、昭和10年8月12日、陸軍統制派の中心人物である永田鉄山(1884~1935)が皇道派の下士官相沢三郎中佐に斬り殺された事件を、第三者の視点で話題にしているだけに読み取れます。しかしながら、実は永田鉄山は渋谷区松濤の本宅とは別に、浴恩館の西(現在の小金井市緑町3-4-18・19)に別邸を建てて、普段は妹の永田壽美(1890~1965)に管理を任せていました。永田鉄山が亡くなった翌年の昭和11年2月28日、つまり二・二六事件の二日後には、後妻の永田重(1902~?)が渋谷から三人の子供を引き連れて、この別邸に移り住んでいます。世間の同情を引いた重は、小金井転居後、新聞記者のインタビューに次のように答えています。

「この土地は主人も生前大変好きな場所でした。日曜ごとに子供たちを連れてはこの辺りを散歩し、隠居したらここで百姓をするんだなどと言って笑わせたものです。それにこの近所には主人の妹(永田すみさん)も以前からお住まいなので私共もここへ移って参りましたようなわけです。」
昭和11年5月10日 読売新聞朝刊

 湖人と永田鉄山が直接に交流のあったことを示す記録はありませんが、浴恩館の西隣に居を構え近辺を子供たちと散策していた永田鉄山を、湖人が知らなかったとは考え難いです。つまり湖人にとって永田鉄山斬殺事件は、帝都東京であった陸軍内部の某重大事件ではなく、近所の高級将校が殺された事件であり、物語中よりはるかに身近な衝撃であったことは想像に難くありません。このことは『下村湖人伝』や『次郎物語』の解説には一切触れておらず、永田鉄山の評伝にも小金井に別邸があったことを記すのみで、その詳細については何も書いていません。
 「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」とは、永田鉄山の人物評として有名ですが、この言葉を述べた鈴木貞一は皮肉にも東條英機の側近でした。『下村湖人伝』には戦後、平木中佐こと鈴木貞一が、巣鴨プリズンで第五部を読んで歯ぎしりをして悔しがったとありますが、それだけリアルな内容であったということでしょう。
 これまで『次郎物語』の研究は、文学や教育学の研究者に限られていましたが、現代史という新たな切り口からアプローチできる可能性を秘めています。次郎の成長物語として読むだけではなく、昭和戦前の日本青年館を取り巻く複雑な政治的状況を視野に入れないかぎり、『次郎物語』第五部の成立過程を解明するのは困難でしょう。


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