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トピックス一覧



福生市郷土資料室


福生市制施行50周年記念企画展示「江戸の日本刀ー赤羽刀譲与20年ー」

 第二次世界大戦後、連合軍総司令部(GHQ)は、日本軍の武装解除の一環として民間が所有する日本刀の接収をおこないました。これらの日本刀は米第八軍赤羽兵器補給廠に保管され、のちにその地名を取って「赤羽刀」と呼ばれています。平成11年12月、福生市郷土資料室は文化庁より赤羽刀97振を譲与されました。
 本企画展示「江戸の日本刀」は、赤羽刀譲与20年という節目の年を記念し、文化庁より譲与された赤羽刀の中から江戸時代の日本刀を中心に展示いたします。江戸の時代に花開いた、美術工芸品としての日本刀の世界をお楽しみください。



町田市立博物館


町田市立博物館収蔵品展「むかしなつかしミシンのはなし」

町田市立博物館が所蔵する6台のミシンとともに、裁縫道具とその使い方やミシンが家庭の必需品としてあった昭和時代を中心とした暮らしについてご紹介します。



清瀬市郷土博物館


清瀬市制施行50周年記念特別展 「リマスターアート®でみるオルセー美術館印象派の名画展」

 清瀬市制施行50周年を記念して、オルセー美術館公認の原寸復元画を多数展示します。同美術館が誇るルノワール、モネ、ゴッホ、ミレー、ドガなどの印象派の巨匠たちの傑作が一堂に会します。



多摩六都科学館


大型映像「HAYABUSA2 ~REBORN~」

小惑星リュウグウのカケラを持ち帰るため、再び広大な宇宙空間へ飛び立ったはやぶさ2。
2年半、32億キロの距離を進み続けた孤独な旅路の末、待ち構えていたのは、想定外のリュウグウの姿だった。
はやぶさ2はどのように困難を乗り越え、数々のミッションを成功させていったのか。
そして彼がリュウグウで見つけたものとは…



多摩六都科学館


全編生解説プラネタリウム「火星 ~赤い惑星~」

2020年の秋は火星が地球に接近します!
太陽系で地球のひとつ外側をまわる火星に、地球人は昔から強い興味を持ち、現在でも多くの探査機を送り続けています。
火星はいったいどんな星なのか?これまでの調査でわかってきた火星の姿をご紹介します。


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多摩六都科学館


大型映像「富士の星暦 日本最高峰を知る」

世界遺産となった日本人の心のふるさと富士山。四季の星空と富士山の姿がドームいっぱいに広がります。
高精細映像で見るダイヤモンド富士、パール富士、迫力の空撮映像、そして山頂からの眺望など。3年間にわたって撮り続けた富士の絶景を姫神の音楽と共にお楽しみください。



福生市郷土資料室


福生市郷土資料室企画展示「平和のための戦争資料展」

 福生市郷土資料室では、毎年終戦の日に合わせ、平和の大切さを再認識することを目的とした企画展示を行っています。
 今年は、戦争に関する報道・喧伝・出版物などのメディア資料と、福生に残る戦争資料を展示し、情報がもたらす力について考えていきます。


東村山ふるさと歴史館


ロビーミニ展示「東村山と戦争」



福生市郷土資料室


福生市制施行50周年記念特別展示「写真でたどる福生」

令和2年7月1日、福生市は市制施行から50 周年を迎えます。
 福生町の時代から福生市へと時代が移り進むなかで、人口増加や生活インフラが整備され、農村から都市へ姿を変えてきました。また、そこで営まれる人々の暮らしや生業も変わってきました。
 展示では、現在の風景との比較を交えながら、福生の街並みや暮らしの変化を写真でたどります。



福生市郷土資料室


福生市制施行50周年記念企画展示「資料が語る福生市のあゆみ」

 福生市制施行50周年を記念して、明治時代から現代までの福生市の軌跡をたどる企画展示を開催します。
 古文書や記念品などの資料を通して、行政の変遷、産業や生活の変化、さらには東京オリンピックとのかかわりなど、これまでの福生市のあゆみを振り返ります。

【期 間】令和2年6月2日(火)~6月21日(日)
     ※新型コロナウイルス感染症の影響により、会期を変更して開催いたします。
【休館日】月曜日(月曜日が祝日の場合は翌平日)
【問合せ】福生市郷土資料室(生涯学習推進課文化財係)
     042-530-1120


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調布市郷土博物館


【調布市郷土博物館】6月2日再開のお知らせ

調布市郷土博物館では、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、令和2年5月31日(日)まで臨時休館しておりましたが、6月2日(火)より開館いたします。入館を電話による事前予約制とさせていただきます。
詳しくはホームページ・ツイッターをご覧いただくか、お問合せください。
調布市公式ホームページ(郷土博物館)
https://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1176118850606/index.html
調布市郷土博物館公式ツイッター
https://twitter.com/chofu_museum


八王子市郷土資料館


八王子市郷土資料館再開のお知らせ(6/2から)

八王子市郷土資料館は、新型コロナウィルス感染拡大防止措置をとった上で、6月2日より開館します。入館制限等を設ける場合もございますが、ご理解とご協力をお願いします。



小金井市文化財センター


『次郎物語』第五部と永田鉄山

 下村湖人(1884~1955)の代表作『次郎物語』の第一部は、湖人の故郷佐賀における少年時代の体験に基づく小説で、多くの映画やラジオ・テレビドラマの原作となり、湖人を一躍有名にしました。湖人は第一部以降も『次郎物語』を書き続けましたが、最後の第五部で物語は未完のまま没しています。湖人は晩年、弟子の吉田嗣延(1910~1989)を主人公次郎のモデルにして、沖縄を舞台に第六部の構想を練っていました。戦後にいち早く一般向けの読み物で、沖縄問題を問おうとした湖人の思いが窺えます。
 最後の『次郎物語』となってしまった第五部は、次郎が二十歳の頃の話です。舞台となっている友愛塾は、湖人が昭和8年から12年まで青年団講習所の所長を務めた当館の前身である浴恩館をモデルにしています。湖人の弟子で『下村湖人伝』の著者でもある永杉喜輔(1909~2008)は、第五部は第一部と並んで最もノンフィクションに近いと指摘しています。次郎の思い人道江は別として、その登場人物の多くには実在のモデルがおり、政治的見解が異なる人物を多数抱え込んでいた当時の日本青年館の状況をそのままに反映しています。
 次郎のモデルは第一部では湖人自身でしたが、第五部では湖人の青年団講習所時代の助手を務めた五百蔵辛碌(いおろいしんろく)です。特に次郎が塾生に体操の指導をする場面、あるいは塾生の歌や踊りに合わせてオルガンの伴奏をする場面は、五百蔵がモデルです。次郎を見守る朝倉先生のモデルは第五部では湖人自身で、朝倉先生を信任し友愛塾を設立した田沼氏のモデルは、言うまでもなく日本青年館の実質的設立者で「青年の父」と謳われた田澤義鋪(1885~1944)です。
 この三人の主要人物の敵役として登場するのが、荒田老と平木中佐です。荒田老のモデル、志賀直方(1879~1937)は志賀直哉の叔父に当たり、日本青年館初代理事長を務めた近衛文麿のスポンサーで、陸軍皇道派の後ろ盾となった人物です。平木中佐のモデル、鈴木貞一(1888~1989)は東條英機の側近で、「最後のA級戦犯」として名高い人物です。二人は浴恩館に、湖人が就任する以前の竣工当初から関わっていました。
 さて、湖人の浴恩館時代、国内の最も大きな事件といえば、昭和11年の二・二六事件でしょう。第五部の後半「九 異変(Ⅰ)」以降は、専ら二・二六事件とその影響下にある登場人物の動静が描かれています。昭和11年2月26日朝、浴恩館にいた湖人は新宿の自宅と日本青年館から電話を受け、初めて事件を知ったのですが、物語中では次郎が電話で事件を知り、それを朝倉先生に伝える設定になっています。しばし愕然とした朝倉先生は、次郎に陸軍内部の派閥争いについて教え諭すため、手始めに二・二六事件の前触れとなった前年の相沢事件(永田鉄山斬殺事件)を採り上げています。

「去年の八月だったか、永田鉄山中将が、軍務局長室で相沢中佐に暗殺された事件があったね、覚えているだろう。」
「ええ、覚えていますとも。まだ裁判はすんでいないでしょう。」
「あれなんかも、陸軍の派閥争いの一つの犠牲だよ。裁判がややこしくなるのも無理はない。」
 朝倉先生は、それから、陸軍内部の近年の動きについて、あらましの説明をしてきかせたが、それによると、全陸軍の主脳部が統制派と皇道派の二派にわかれて、醜い勢力争いをやっている、というのであった。
下村湖人『次郎物語』第五部より

 これを読んだ限りでは、昭和10年8月12日、陸軍統制派の中心人物である永田鉄山(1884~1935)が皇道派の下士官相沢三郎中佐に斬り殺された事件を、第三者の視点で話題にしているだけに読み取れます。しかしながら、実は永田鉄山は渋谷区松濤の本宅とは別に、浴恩館の西(現在の小金井市緑町3-4-18・19)に別邸を建てて、普段は妹の永田壽美(1890~1965)に管理を任せていました。永田鉄山が亡くなった翌年の昭和11年2月28日、つまり二・二六事件の二日後には、後妻の永田重(1902~?)が渋谷から三人の子供を引き連れて、この別邸に移り住んでいます。世間の同情を引いた重は、小金井転居後、新聞記者のインタビューに次のように答えています。

「この土地は主人も生前大変好きな場所でした。日曜ごとに子供たちを連れてはこの辺りを散歩し、隠居したらここで百姓をするんだなどと言って笑わせたものです。それにこの近所には主人の妹(永田すみさん)も以前からお住まいなので私共もここへ移って参りましたようなわけです。」
昭和11年5月10日 読売新聞朝刊

 湖人と永田鉄山が直接に交流のあったことを示す記録はありませんが、浴恩館の西隣に居を構え近辺を子供たちと散策していた永田鉄山を、湖人が知らなかったとは考え難いです。つまり湖人にとって永田鉄山斬殺事件は、帝都東京であった陸軍内部の某重大事件ではなく、近所の高級将校が殺された事件であり、物語中よりはるかに身近な衝撃であったことは想像に難くありません。このことは『下村湖人伝』や『次郎物語』の解説には一切触れておらず、永田鉄山の評伝にも小金井に別邸があったことを記すのみで、その詳細については何も書いていません。
 「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」とは、永田鉄山の人物評として有名ですが、この言葉を述べた鈴木貞一は皮肉にも東條英機の側近でした。『下村湖人伝』には戦後、平木中佐こと鈴木貞一が、巣鴨プリズンで第五部を読んで歯ぎしりをして悔しがったとありますが、それだけリアルな内容であったということでしょう。
 これまで『次郎物語』の研究は、文学や教育学の研究者に限られていましたが、現代史という新たな切り口からアプローチできる可能性を秘めています。次郎の成長物語として読むだけではなく、昭和戦前の日本青年館を取り巻く複雑な政治的状況を視野に入れないかぎり、『次郎物語』第五部の成立過程を解明するのは困難でしょう。



小金井市文化財センター


小金井桜と二人のイギリス人研究者

 小金井の桜は早くから海外の研究者にも注目され、国の名勝指定以前の大正3年4月、ハーバード大学の委嘱により来日したアーネスト・ヘンリー・ウィルソン(1876~1930)が小金井堤を訪れ、極めて鮮明なガラス乾板写真を撮影しています。玉川上水と小金井の桜並木の写真は、絵葉書をはじめとして膨大な数に上りますが、撮影年月日まで分かるものは極めて稀です。ウィルソンが撮影した「日の出の桜」や梶野橋の写真は、撮影年月日のみならず撮影地点が特定できる貴重なものです。
 ウィルソンはイギリス中西部に生まれ、21歳で王立植物園キューガーデンに採用されます。23歳で中国から幻の花「ハンカチノキ」の種子を持ち帰るなど、計4回にわたり中国奥地を探検し、当時は未知の植物をヨーロッパにもたらしたプラントハンターとして知られる人物です。その後、アメリカに住まいを移し、ハーバード大学アーノルド植物園に勤務。大正3年の初来日時には、屋久島から北海道までを縦断し、2月に屋久島で屋久杉の切り株「ウィルソン株」を発見したのち、4月に小金井堤を訪れています。
 ウィルソンが小金井を来訪した大正3年4月9日は、昭憲皇太后が崩御した日でもあります。大久保善左衛門(常吉)を中心に小金井桜を国の名勝に指定すべく運動していた地元団体「小金井保桜会」は、当初、その発会式を大正3年4月12日に予定していました。ところが、昭憲皇太后崩御により延期、翌大正4年4月18日に発会式を行います。ウィルソンは事前に小金井保桜会が発足する時期を見計らって、小金井を訪れたのかも知れません。
 ウィルソンは東京での定宿を帝国ホテルにしていましたが、帝国ホテル支配人林愛作は、桜を愛好する日本全国の名士の集まり「桜の会」の中心人物でした。桜の会には大久保善左衛門(常吉)や磯村貞吉など、小金井保桜会の上層部も名を連ねていました。ウィルソンは三好學や牧野富太郎とも交流があり、小金井堤を訪れたのも桜の会からの情報提供によるものでしょう。大正13年には小金井保桜会の尽力が実り、小金井桜は国の名勝に指定されます。さらに大正15年には、イギリス人園芸家コリングウッド・イングラム(1880~1981)が小金井を来訪します。
 イングラムはロンドンに生まれ、祖父の代から新聞事業で財を成し、裕福なので働く必要はなかったので、学校教育は一切受けず、独学で鳥類や桜の研究者として名を成しました。来日は明治35年・明治40年・大正15年の都合三回にわたり、日本全国の桜の名所を行脚しました。日本の多様な品種のヤマザクラに魅せられたイングラムは、その穂木(接ぎ木の際に台木に挿す枝)をシベリア鉄道や船でイギリスに送っています。今日、イギリスに広まっている日本のヤマザクラは、イングラムによって植樹されたものの子孫です。
 イングラムが小金井を訪れたのは、武蔵小金井駅正式開業後、初めての春である大正15年4月21日。通訳と案内は、桜の会の林愛作が務めました。イングラムを現代に紹介した阿部菜穂子氏より直接伺ったところでは、イングラムは日の出の桜と並ぶ名桜「富士見桜」を撮影し、すでに老木化が進んでいた富士見桜の手当ての必要性を手記に残しているそうです。またイングラムは帰りがけに、小金井橋南にあった磯村貞吉の経営する華丘香園(はなおかこうえん 別名:三田育種場小金井支場)を訪れ、八種類のヤマザクラと紅梅の穂木を、イギリスのイングラム邸まで送ることを依頼しています。さらに昭和3年には、イギリスに帰国したイングラムのもとに、桜の会から富士見桜の穂木を船便で送っています。現在、イギリスに広まっている日本のヤマザクラの中には、小金井桜の子孫もあるはずです。

参考文献
古居智子『100年前の東京と自然 プラントハンター ウィルソンの写真』八坂書房
※ 写真は同書より転載
阿部菜穂子『チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人』岩波書店



小金井市文化財センター


映画『日本百年』に見る小金井桜の賑わい

 昭和49年に劇場公開された映画『日本百年』は、山田洋造監督による明治から戦後の高度成長期に至るまでの日本を、通史的に俯瞰したドキュメンタリーです。本作はニュースフィルムや写真をつなぎ合わせて制作されており、その中には昭和5年の春、小金井堤に花見にきた様子を収めたフィルムが、2分30秒ほど使われています。撮影者は明らかではありませんが、昭和戦前に家庭用ムービーカメラを所有したのですから、かなり裕福な一家であったのでしょう。
 新宿駅を出発する場面から始まり、すでに武蔵小金井駅は通年営業しているのにも関わらず国分寺駅で下車します。国分寺駅ホームの名所案内の掲示板には、「貫井弁財天」「国分寺旧址」「大国魂神社」「小金井ノ桜」が挙がっています。このあと場面は玉川上水堤に切り替わり、はじめに小金井橋北の名勝小金井桜標柱が写ります。堤をぞろぞろ歩く花見客の群れは、現在の渋谷駅前交差点を連想させるほどの混雑ぶりです。輪になって踊り狂う人々、旅芸人の子供、喧嘩をする酔客等々。小金井橋北の柏屋付近では、客を引く芸妓がたむろっています。短い収録時間にも関わらず、世俗化し狂騒に満ちた当時の花見に圧倒されます。
 小金井堤のヤマザクラ並木は、寛政年間頃から江戸市中の人々にも徐々に知られるようになります。はじめに小金井を訪れたのは、すでに桜の名所として知られていた上野寛永寺・飛鳥山・墨堤など、江戸庶民の花見の名所の喧噪を嫌い、静かに武蔵野の里で花見を楽しみたい江戸のインテリ層、文人たちでした。明治22年、中央線の前身である甲武鉄道が開通した当初は、境停車場(現武蔵境駅)と国分寺停車場(現国分寺駅)が、小金井堤に向かう最寄り駅でした。さらに大正13年、小金井桜が国の名勝に指定され、大正15年の武蔵小金井駅正式開業により、都心から益々盛んに花見客を呼び込みました。
 『日本百年』に見る昭和5年の小金井堤の賑わいは、花見客の動員数だけを考慮すれば、正に昭和戦前のピーク時の映像です。そこに映し出された小金井堤は、小金井桜当初の閑雅な花見には程遠いものです。良し悪しはともかく、退廃的な空気さえ醸し出す昭和戦前の花見の実態を知るうえで、このフィルムは貴重な情報源に違いありません。


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東京都三多摩公立博物館協議会とは加盟館リスト

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